2009年07月24日

井上章一:『伊勢神宮』

井上章一の『伊勢神宮』を読んだ。
僕の読んだ著者の著作と同様なのだが、彼の文献の行間を読み込む姿勢とそこから浮かび上がってくるニュアンスは、我々が現在抱える問題に踏み込んでくる。どれも読んでいると、自分が解体されていく感覚になる。

下記はウイキペディアにある筆者の著作だが、どれも手にとってみたいものばかりである。『伊勢神宮』の「あとがき」で筆者の社会における評価を嘆いてみせるが、いやいや、根強いファン層はかなりあるように思う。関西人特有のサービス精神が関東文化圏には受け入れられないだろうことは頷ける。

『霊柩車の誕生』
『つくられた桂離宮神話』
『アート・キッチュ・ジャパネスク―大東亜のポストモダン』
『邪推する、たのしみ―アートから風俗まで』
『美人論』
『美人研究―女にとって容貌とは何か』
『美人コンテスト百年史―芸妓の時代から美少女まで』
『おんな学事始』
『法隆寺への精神史』
『狂気と王権』
『関西人の正体』
『グロテスク・ジャパン』
『南蛮幻想――ユリシーズ伝説と安土城』
『人形の誘惑−招き猫からカーネル・サンダースまで』
『愛の空間』
『キリスト教と日本人』
『阪神タイガースの正体』
『パンツが見える。―羞恥心の現代史』
『「あと一球っ!」の精神史−阪神ファンとして生きる意味』
『アダルト・ピアノ―おじさん、ジャズにいどむ』
『名古屋と金シャチ』
『夢と魅惑の全体主義』
『日本の女が好きである。』
『日本に古代はあったのか』


さて、この『伊勢神宮』。
帯にある、「これほどまでに日本人の心を惑わせた建物があっただろうか」はこの本の全てを言い表しているように思う。
筆者の執拗な資料の読み込みは時代の精神、その時代に翻弄される人々の姿を炙り出してくれる。
僕を含めて神秘の言葉に収束しがちな「伊勢神宮」は近代になって時代の精神の鏡として我々の心を惑わしてきたのだとおもう。
ある時には陰陽五行説でもって語られ、ある時には日本の始源に想いを馳せる手掛かりになり、時代の時々により言葉を変えて「日本」の独自性を謳い、また東アジアのダイナミックな人類史の証ともなっている。また、古来姿を変えない「神宮」として、変えてきた「神宮」としてフォーカスの当て方により、どの貌にも「神宮」は似合うように思う。
これこそ、まさに古典といえるのだろう。
惑わされた様々な人々の手垢に塗れず凛と清浄な姿で経ち(立ち)続ける魅力が「神宮」なのだろうと思う。そこには神秘の言葉で飾る誘惑に駆られてしまう。
posted by らまんちゃん at 16:34| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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